プリウスの前身、G21プロジェクトとその次のG30活動

G21という符牒は、このブログの読者、またプリウス本をお読みのかた、トヨタの関係者や私の講演をお聞きの方なら記憶されているかもしれません。石油資源、地球温暖化問題が騒がれはじめた1992年ごろ、世界ではハイブリッド車プリウスの開発につながるいくつかの動きがありました

世の中では、地球温暖化を筆頭とする環境問題の深刻化が顕在化、この地球環境問題を議論する国連主催の第1回世界環境サミットがリオ(ブラジル)で開催されたのが1992年6月です。持続可能な開発、サステーナブルデベロプメントがキーワードでした。一方、米国カリフォルニアではロススモッグ解決のため、究極の自動車環境規制、LEV/ZEVを議論していた時期です。排気ガスを出さない自動車ZEV(ゼロエミッション自動車)の販売義務付けが議論されていました。

21世紀を間近にし、ちょうどトヨタの将来ビジョンが社内の各部署で議論されている最中でした。1993年春にこの議論をもとにまとめられた中長期ビジョンのタイトルが『調和ある成長:Harmonious Growth』 、その中核の一つが持続可能な自動車を目指すことを宣言した『トヨタ地球環境憲章』です。この中長期ビジョン、その中核となる地球環境宣言に沿い、トップからその実現に向かう業務改革、組織改革、さらに具体化のためのアクションが社内各部門への宿題として示されました。

 

ハイブリッド普及プロジェクト「G30」

われわれ技術開発部門が、この宿題としてスタートさせた研究プロジェクトの一つが、この社内コードG21、持続可能な自動車社会への一歩となるグローバル・セダンの探索プロジェクトです。1993年秋に少人数でスタートしたG21が周囲のあれよあれよとの間にハイブリッドを搭載するプリウスとなり、“21世紀に間に合いました”のキャッチコピーで1997年12月に発売を開始しました。この経緯は、いろいろなプリウス本に紹介されている通りです。

それから16年、昨年末にそのトヨタハイブリッド車累計販売台数が600万台を突破、持続可能な自動車への大きな一歩を踏み出すことができました。今日の話題は、このG21から今日の600万台への道のりの中にあったもう一つのマイルストーンG30を紹介したいと思います。

このG30は社内だけで通用するプロジェクトコードですが、当時ではプリウスにつながる車両開発プロジェクトのコードではありません。量産のスタートを切ったハイブリッド車の普及をめざすシナリオ策定と、それに対応する開発企画、車両企画、開発体制を提案する活動です。

初代の発売から2年半、モーター、発電機、電池、ハイブリッドシステム部品のほとんどを作り替えるシステムとしての大改良を行い、欧米での発売をスタートさせたのが2000年マイナーチェンジプロジェクトでした。そんな時期、これもトップ役員からハイブリッド車普及として次ぎは2005年30万台/年のシナリオ策定とその具体化プラン提案を指示されました。このシナリオ策定とその開発体制の仕組みを作り上げるのがG30 プロジェクトの役割でした。

プリウスのモデルチェンジ、さらにエスティマ、クラウンとそれぞれプリウスとは機構が違うハイブリッド開発をやりながら、普及戦略をたて具体化するのもお前の役割と事務リーダーを仰せつかりました。G21もプリウス本にあるようにとんでもない超短期開発、社内でもクレージー扱いもされましたが、技術を見極め、チャレンジし、安全に関わる品質に抜けがないようスタッフ一丸で必死に取り組んだ先にゴールがありました。

 

利益を出せるハイブリッドに

開発マネージャー、ビッグプロジェクトのリーダーだからといって、技術開発だけに集中していれば良いわけではありません。しかし、このG30はG21のようにハイブリッドの量産化に集中すれば良い話ではありませんでした。G21はあっという間でしたが、その最中は無我夢中で産みの苦しみのプロジェクト、そこから何度かとりあげたマーケットでの品質向上への取り組みで育ての苦しみも味わいましたが、このG30は世間の冷たい風にも当たりながらハイブリッドを大きく成長させるきっかけとなるステップでした。

当然ながら、まずは収益問題、欧米メーカートップが言った一台ごと、札束を付けて売っているとの状況からは脱出していましたが、初代、マイナーチェンジまでに使った先行開発投資、設備投資の回収まで入れた収益計画の具体化を求められたのもこのG30です。このプロセスでもいろいろなことを学びました。普及拡大には、先行投資分の回収を進めながら、さらに先の開発に投入する原資を確保していく必要があります。ハイブリッド車を増やすにはハイブリッド採用車種の拡大が必要、さらに開発要員の確保、人材育成、開発設備の増強などなどの手当も同時にやる必要がありました。一車種あたりの生産台数が増やせれば、コスト的には楽になりますが、営業部門がそれほど楽観的な台数を提示することはありません。当時、現在進行形だったまだまだ不良発生のおおかったマーケット不具合も、この高い不良率で算定した故障対策費が次ぎのコスト目標に上乗せさせられます。生産予定台数を多くすればするほどコストが下がる訳ではありませんが、少なすぎては開発投資分、設備投資分の回収分が積み上がり、台当たりのコスト増がどんどん大きくなってしまいます。

さらに、営業サイドからはハイブリッド分のコスト増に対し、厳しい販価査定が提示されました。そのギャップを埋めるのがコスト低減活動ですが、知恵を絞り、汗を流してギリギリ届きそうなチャレンジ目標を決めていくのもG30活動の重要部分でした。

普及に伴いハイブリッドにも様々な軋轢が生じてきた

途中経過をパスしてG30活動の顛末を述べると、2005年の30万台/年販売の目標達成はできませんでした。クラウンで採用したマイルドハイブリッドはもちろん、今はポピュラーになってきているアイドルストップまでハイブリッドの範疇に入れて達成シナリオを検討しましたがさすがにそのシナリオは取り下げました。当時、ハイブリッド路線と収益性に疑問を投げ抱えるような、コンペティターやメディアからの弾丸、矢もいっぱい飛んできていましたが、後ろからの弾丸、矢も降ってきたのがこのG30活動でした。

この活動をやりとげたから今の600万台があると思っています。遮二無二、勢いをつけたからやり遂げることができたと信じています。後ろからの弾丸や矢も、前に進むスピードを上げれば勢いが弱まり、さらに時代を切り拓くのは自分達と信じて開発に取り組んでいたスタッフ達の熱気もこれをはじき返す力になったと今になり懐かしく振り返っています。

結局は、G30活動で作り上げたシナリオではなく、この熱意ある開発スタッフ達が取り組んだ、次のプリウス、ハリアーハイブリッド、そしてアクアと続く、ハイブリッド車がこのシナリオを飛び越して、600万台へと発展させた原動力となりました。このG30とそのときの後ろからの弾丸や矢が降ってきた話は自分の墓石の中まで持ち込むつもりでいましたが、バブル崩壊からやっと次の成長へと舵をきった日本再生、アベノミクスの具体化はきれい事だけでは済みません。人間ドラマ、アゲンストであった当時の振り返りも必要と思いました。今が日本再生の21世紀全般の最後のチャンス、このチャンスを失した先に次のチャンスが巡ってくるかは解りません。このチャンスの後ろ髪を追っかけることにならないよう、このG30で学んだ教訓をお伝えしていきたいと思っています。乞うご期待ください。