豊田英二さんご逝去の報に触れて

 私の尊敬する豊田英二さんが、一昨日亡くなられました。今月12日に満100歳をお迎えになってのご逝去です。私がトヨタ自動車に入社した1969年当時の社長で、入社したての新人エンジニアにとっては入社式で仰ぎ見る存在で、直接お話をお聞きする機会が豊富にあったわけではありませんが、入社以降、私の最も尊敬する人は英二さんとなりました。

 仰ぎ見る人を「さん」付けて読んでいることに違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、入社当時から上司や先輩も社長ではなく英二さんと呼んでおり、またわれわれ同僚の間でも英二さんと呼んでいたように思います。とはいえ、社長訓示や現場のご視察などから伝わってくる雰囲気は決して気さくな風ではなく、親しみやすさからこう呼んでいたわけではなかったと思います。何か経営者としてだけではなく、尊敬する大先輩のエンジニアとして上司、先輩たちも名前でお呼びしているのを聞き、われわれもそうお呼びすするのが当たり前と感じていました。

排ガス問題で英二さんを矢面に立たせたのが悔しかった

 入社当時は自動車の排ガスによる大気汚染問題が騒がれ始めた時期であり、米国のマスキー上院議員が提案した通称マスキー法と呼ぶエンジンから出てきた排気ガス中の大気汚染成分の一酸化炭素(CO)、燃え残りのガソリン成分(HC)、燃焼生成物の窒素酸化物(NOx)の90%削減を求める法案が提案されていました。トヨタとしても日本のモータリゼーションがスタートし、やっとクルマとしてアメリカでも認められ始めた時期で、この排気規制をクリアする技術を開発できなくては会社としての将来はありません。

 トヨタ社内では、富士山の裾野に設置された東富士研究所に排気ガス対策特別プロジェクトチームが結成され、私もそのプロジェクト要員として加わることになり東富士研究所の赴任したのが1971年11月でした。

 この自動車排気ガスによる大気汚染問題は、アメリカだけではなく、モータリゼーションが進み始めた日本でも問題となり、国内で自動車の排気ガス規制強化が大きく取り上げられるようになったのもこのころです。英二さんは、当時自動車工業会の会長としてこの規制強化議論の矢面に立たされ、国会での規制法案議論での参考人喚問でのやりとりが、メディアに技術開発の遅れ、後ろ向きの対応と叩かれ、開発現場のわれわれとしても悔しい思いをしました。

 このいきさつについては、以前のブログで取り上げていますが、英二さんもこのころを振り返り、このマスキープロジェクト対応がトヨタのエポックだったことを語っておられ、強い共感を覚えたものです。

英二さんの『聞く力』

 このマスキープロジェクト以降も、英二さんは東京ご出張の途中などで、東富士研究所に立ち寄られることが何度かありました。ご視察に対応したのはわずかの機会でしたが、それでも英二さんの徹頭徹尾の現場主義を肌身で感じる機会を得ることができました。会議室でのご報告ではなく開発中のエンジンやその部品も実験中のエンジン実験室のご視察、またはその開発エンジンを搭載したプロト車のご試乗とその場での報告がほとんどであったように記憶しています。

 その時も我々のような担当エンジニアの、今にして思うと拙い説明にも、決して途中に口を挟まれず、じっくりと聴いていただいた事が強く印象に残っています。ご質問も数は多くありませんでしたが、こちらがギクッとするような鋭いご質問にどぎまぎさせられた記憶があります。英二さんのお話が聴きたくて、自分の担当でない実験室にもついて回り、耳をそばだてて聴きのがすまいとしたことも懐かしく思い出されます。

 技術の的を射た厳しいご質問やコメントなどの注文・指示については若いエンジニアではなく、同行する部長・次長に直接お話しするなど、エンジニアとしてだけではなく、マネージとしても時間は短くとも強くご薫陶をいただいたと思っています。

 英二さんから直接ご指導いただいた会社の大先輩のお一人から、エンジニアおよびマネージャーの心得を伝えて頂きました。

『若いエンジニアの話は、眠くなっても、我慢をしてでも、じっくりと、途中に茶々をいれずに聴くこと。そうしなければ、だんだん本当のことを伝えてくれなくなる』

 その薫陶を受けた大先輩ご自身が役員になられてからも忠実にこの教えを実行されておられました。まさしく英二さんが研究所ご視察のときの状況そのままの心得でした。残念ながら、私自身はこの教訓を忠実には実行できたか自信は全くないのですが、なによりも現場主義の実践、若いエンジニアの話を現場でじっくり聴くことなどは心掛けてきたつもりです。

英二さんの次代の技術者への言葉

 私はハイブリッドプリウス開発、自動車の未来についてお話をする機会には、今もハイブリッド車プリウス開発の支援者であり、最大の理解者だった英二さんの言葉をトヨタのDNAとして紹介させていただいています。

 今回、その一部をご紹介したいと思います。

考える力『最近は技術のことでも経営のことでも調べようと思うと多くの情報が得られる。まさに情報の洪水といってもよい。便利なことには違いないが、下手をすると自分で努力して考える力を失うのではないかと思います。問題を解決するのは最後は自分自身であることを常に忘れてはなりません。(途中省略)道具と言えばせいぜい紙と鉛筆、算盤、計算尺であった時代でも、現在でも、観察力とか洞察力とかが最後の決め手になることには変わりはなりと信じます。エンジンやキャブレターに一部の調子を良くする必要があったとき、早速オシロスコープやストレンゲージをそこにつなぐことを考える前にエンジン全体とか自動車全体をもう一度よく観察して、次に部分の対策検討をするのが望ましい態度だと思います』 

物を見る目『技術者は物を良く見るということが大切だ。特に若い人達にとっては重要なことです。また実験をやるにしても現象をよく見ることが必要です。予想通りいくかどうかを見るだけでなく、先入観にとらわれずに現象そのものをよく見ることが必要です。』

モノづくり『モノづくりは価値を創造し、文明を創造する原点です。モノづくりは「技術」の発展と深いかかわりをもっています。言い換えれば、技術の進歩はモノづくりがあってこそ初めて生まれてくるのです。モノづくりは常に、それにたずさわっている「人」と「ノウハウ」の蓄積によってなされるものです。』

人づくり『人間がモノをつくるのだから、人をつくらねば仕事も始まらない。』

これらは、1996年に発行された社内誌に取り上げられた英二さん語録の一部です。

ハイブリッド開発を大いに喜んでいただけた

 マスキープロジェクト以降も、クリーン技術、低燃費技術には常に強いご関心をお持ちで研究所に来られる度にわれわれが開発検討を行っているエンジン実験室に足を運ばれ、エンジンの音色に耳を傾けられ、またその音を聴きながら開発部品を熱心にご覧になり、そのあと、場合によっては痛いところを突く鋭い質問、コメントを頂いたことを思い出します。私の開発担当では、できたばかりのマイコンエンジン制御のプロト車に試乗いただき、そのクルマがテストコースでエンストを起こし、走れなくなってしまったことも、今としては良い思い出です。

ハイブリッド車プリウスの開発での思い出では、1997年10月10日の東京での新車発表会の開催前の会場で、ハイブリッドシステム紹介、部品展示のブースで若いエンジニアからの説明を途中に言葉を挟まれず、熱心にお聴きになり、新車発表に漕ぎ着けたことを非常に喜ばれ、ねぎらいの言葉をいただいたことが強い印象として残っています。

私が入社する前、昭和36年に日本自動車技術会の会長として米国自動車技術会(SAE)主催の国際会議に出席されたあと、SAEゴードン会長の『米国の伝統的精神は挑戦を受けた場合は受けて立ち、断固打ち破ることである』とのスピーチに対し、帰国後

『米国が挑戦者として対等に扱う以上、我々は実力を発揮しなければならないのです。他人のやっていることを学んでまねをするだけではなりません。それではただ相手に圧倒されるだけであります。我々の創意と工夫と知恵によって、さらに我々の努力を加えることによりよって、よい車をつくりあげなければなりません。もし我々に創意、工夫、努力、困難に立ち向かう勇気に欠けるならば我々は一敗地にまみえざるをえないでしょう。』

と述べられています。このお気持ちをひしひしと感じ、マスキーエンジン、そのごの低燃費エンジン、高出力エンジンの開発に挑戦者の気持ちで取り組んできたつもりです。

ハイブリッド開発では、この我々の創意、工夫、知恵、努力、困難極まる技術開発へのチャレンジを評価いただけた笑顔であったと今も思い浮かべています。

こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。